井上ひさしの傑作戯曲が、藤田俊太郎の手によって鮮やかに現代に蘇る!『天保十二年のシェイクスピア』
演劇界の巨星ウイリアム・シェイクスピアの全37戯曲を、江戸末期の人気講談「天保水滸伝」に織り込んで描いた、井上ひさしの才気あふれる作品として名高い『天保十二年のシェイクスピア』が、躍進を続ける気鋭の演出家・藤田俊太郎演出により、日比谷の日生劇場で上演中だ(29日まで。のち、3月5日~10日大阪・梅田芸術劇場メインホールでも上演)
『天保十二年のシェイクスピア』は、シェイクスピアの四大悲劇「リア王」「マクベス」「オセロー」「ハムレット」をはじめ、「ロミオとジュリエット」「リチャード三世」「間違いの喜劇」等々、現代演劇においても絶大な影響を与え続けるウイリアム・シェイクスピアの全作が、「天保水滸伝」の侠客たちの争いの中で描かれていく井上ひさしの傑作戯曲。1974年に西武劇場で初演されたが、4時間を優に超える大作の為に、戯曲の面白さにも関わらず上演が少なく、直近の蜷川幸雄演出版から数えても、実に15年ぶりの上演になる。今回はその蜷川版でスタッフの一人だった藤田俊太郎が満を持しての演出に挑み、全体を3時間40分程にブラッシュアップ。群像劇でもある作品の骨子は変わらないまま、高橋一生演じる佐渡の三世次の泥臭い生き様と、浦井健治演じるきじるしの王次の潔さとの対比をより明確にし、現代の演劇スタイルに巧みに編み上げた『天保十二年のシェイクスピア』が展開されている。
【STORY】
江戸の末期、天保年間。下総国清滝村の旅籠を取り仕切る鰤の十兵衛(辻萬長)は、老境に入った自分の跡継ぎを決めるにあたり、三人の娘に対して父への孝養を一人ずつ問う。腹黒い長女・お文(樹里咲穂)と次女・お里(土井ケイト)は美辞麗句を並べ立てて父親に取り入ろうとするが、父を真心から愛する三女・お光(唯月ふうか)だけは、おべっかの言葉が出てこない。その為に十兵衛の怒りにふれたお光は、二人の姉に父親を託して後ろ髪を引かれながら家を離れる。
月日は流れ、天保十二年。跡を継いだお文とお里が欲のままに骨肉の争いを繰り広げている中、醜い顔と身体、歪んだ心を持つ佐渡の三世次(高橋一生)が現れる。謎の老婆(梅沢昌代)のお告げに焚き付けられた三世次は、身体と顔と引き換えに与えられたと言い切るほどの、立て板に水の弁舌で言葉巧みに人を操り、清滝村を手に入れる野望を抱くようになる。そこにお文の息子・きじるしの王次(浦井健治)が父の死を知り、無念を晴らすために村に帰ってくるが……。
全体の流れを観ていて、やはりまず何よりも感嘆するのは、井上ひさしという劇作家の異才ぶりだ。物語の中心となる醜い顔と身体、歪んだ心を持つ佐渡の三世次は、明らかにリチャード三世だが(「リチャード三世」)、のし上がる為に仕えた人に猜疑心を注ぎ込む場面では「オセロー」のイアーゴだし、兄貴分を蹴落として跡目を相続しようとする場では「ジュリアス・シーザー」のアントニーに変貌する……といった形で、あの作品の誰が誰に転生していると、簡単に=にならないことが作品の興趣を深めている。物語そもそもの発端である鰤の十兵衛が、自分の跡継ぎを決める為に三人の娘に対して父への孝養を問うくだりは、非常にわかりやすくブリテンの王「リア王」で、上の二人の娘がそれぞれの侠客一家を率いて争う段になると自然に「ロミオとジュリエット」になり、更に娘が頂点を極めようと間男に夫の殺害を持ちかけると「マクベス」へ変わり、今度は逆に佐渡の三世次の策略で、新たな夫から殺される側になると「オセロー」へと移っていく。このめくるめくような入れ子細工が全く違和感なく、怒涛のように流れていく様にはただ驚嘆するしかない。
「芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目くらいにこっそりと顔を出す程度でいい。誤解を恐れずに言えば、芝居では趣向さえも思想のひとつなのだ」
と、井上ひさしがこの作品の初演のパンフレットに寄せた文章が、すべてを語っていると言っていいほど作品が趣向に満ちていて、だからこそ逆説的に、戦前、戦中、戦後、日本がたどった道程をハッキリと批判しながらも、あくまでもエンターテインメントとして成立している作品を多く書いた、井上の演劇に対する姿勢そのものがあらわれてくる。その才気があまりに桁外れで、観ていてとにかくゾクゾクする。
そう感じさせる根幹に、演出の藤田俊太郎の井上戯曲に対する限りない敬意があることは論を待たない。演出家として破竹の勢いで快進撃を続けている藤田の仕事の根幹には、戯曲に対する敬愛と尊重が常にあり、己の才気を誇示するような演出を決してしない。それでいながら、作品が明確に藤田俊太郎の手になるものだとちゃんと伝わってくることが、藤田自身の才気のやはり桁外れ感を高める。セットを重層にして劇場の床面だけでなく、高さもアクティングエリアにしていくことで、物語をスピーディかつ多層的に展開していく迫力と、音楽劇としての面をより強調する仕立て。特に、終幕背景を反転させて舞台全体が鏡となり、佐渡の三世次の姿形だけでなく、心模様さえ突き付ける場の壮絶な美しさが、同時に観る者の心も照射していく。この一瞬で、何故この作品がこうまで赤裸々な欲望や、血なまぐささを隠さないのか?の理由が、決してこの世界が天保十二年の絵空事の物語ではなく、現代にもそのまま通じる人の愚かさと哀しさ、それ故の痛みと愛おしさを描いた故なのだ。と、井上戯曲があくまでも「趣向」と言いながら伝えていたものを、藤田が鮮やかに描き出したことに息を飲んだ。この見事さ。長尺の作品のスピードをあげる為に、主には語り部である木場勝己演じる隊長が「今の場面はシェイクスピアのあの作品のここです」と解説していた部分をほぼ割愛し、シェイクスピア作品の観客の認知度にある意味委ねる選択をしつつ、「もしもシェイクスピアがいなかったら、文学博士になりそこなった英文学者がずいぶん出ただろう」にはじまる、井上の歌詞の言葉遊びやレトリックを観客が聞き逃さないように、字幕を出した丁寧さなど、大胆かつきめ細かい。更に、非常にハイレベルなアンサンブルたちの人間臭さ、個性豊かな人々が集うからこそのパワーには、きちんと藤田の師である蜷川版へのオマージュがあって、日生劇場で演じる『天保十二年のシェイクスピア』としての品格と、作品が求める猥雑さのバランスも絶妙だった。
そんな作品で、佐渡の三世次を演じた高橋一生の闇の纏い方が素晴らしく、舞台出演が久しぶりだということに逆に驚かされるほど。これだけの大人数が関わる舞台で初登場時点から場を浚う存在感は目を瞠るばかりで、一気にドラマを牽引していく。戯曲よりも早く三世次が登場することによって、この世界が三世次の視点で動いていくことが明確になっている中で、役柄上動きに制約がある高橋の息もつかせぬ台詞術が、佐渡の三世次の野望と、したたかさを表現し、創り込んだメイクの中でも目の動き、表情の変化が刻々と動く役柄の心を見せてくれる。全てを手に入れたと思いながら、愛に足を掬われる。佐渡の三世次の己に対する、世の中に対する怒りと悲しみと絶望が手に取るように伝わる好演だった。
きじるしの王次の浦井健治は、役名からストレートにわかるように基本的にはハムレットだが、お光との恋ではロミオにもなるという役どころを、実に爽やかに輝くばかりのオーラで演じている。ミュージカル界のプリンスとして名を馳せる浦井だが、近年では複雑な心理描写の役柄を多く演じてきていて、その芝居の中で本来のキラキラ感やスターオーラをむしろ控えていたことが、この役柄で鮮明になった。それほど登場してきた瞬間から浦井が運んだ清涼感は絶大で、この光があるからこそ佐渡の三世次の闇が際立つ効果になった。浦井がここにキャスティングされた意図を十二分に体現した快演が、作品の骨格をより鮮明にしている。
「リア王」の末娘コーデリアから、ジュリエットになり、「間違いの喜劇」の離れ離れになってしまった双子の兄弟転じて双子の姉妹の二役につながっていくお光の唯月ふうかは、『レ・ミゼラブル』のエポニーヌや『屋根の上のヴァイオリン弾き』のチャバ等で見せた、ひたむきさや愛らしさに、近年の作品で蓄えた豪胆さや、鋭さも加味して新境地を示している。境遇が変わって変化していくお光の造形から、二役のおさちの楚々とした居住まいへの早変わりも見事で、終幕に重要な鍵を握る役柄を支えていた。
冒頭から大活躍をする鰤の十兵衛の長女・お文の樹里咲穂と次女・お里の土井ケイトの、いずれ劣らぬ達者さと、丁々発止のいがみ合いは大きな見せ場で、どんなにアクの強い役柄を演じても徹底的には嫌味にならない樹里と、その美しさがやはりどれほど権を競っても切なさを生む土井の、それぞれの持ち味が生きている。お文の夫の阿部裕が兄弟の二役を面白く見せ、お里の夫の玉置孝匡の妻に気圧されていく変化が、「マクベス」につながる尾瀬の幕兵衛の章平の美丈夫ぶりと噛み合い、物語の進行を繋いだ。純粋すぎるほど純粋な青年佐吉の木内健人が、優しい持ち味で役柄を浮かせず、浮舟太夫の熊谷彩春との悲恋、もうひとつの「ロミオとジュリエット」を切なく見せた。熊谷は「ハムレット」のオフィーリアにあたるお冬も演じていて、見応えがある。
ここに、鰤の十兵衛の辻萬長の重みある演技が場を締めたし、謎の老婆を大胆に、佐吉の母を如何にもの庶民の母にそれぞれ造形した梅沢昌代と、ベテランの味わいも深い中、何より語り部として冒頭から作品を引っ張った木場勝己の、飄々とした中に鋭さのある存在が舞台に寄与した力は大きく、スタッフ、キャストの総力で令和の『天保十二年のシェイクスピア』が、見事に仕上がったことを喜びたい舞台となっている。
また、初日を前に囲み取材が行われ、高橋一生、浦井健治、藤田俊太郎が、作品への抱負を語った。
【囲み取材】
──チケットが前売りで即日完売した大変な注目の作品ですが、演出の藤田さんこの作品の魅力についてお聞かせ下さい。
藤田 『天保十二年のシェイクスピア』とタイトルにありますように、シェイクスピアの全作品と、講談の「天保水滸伝」を元にしてできた作品です。江戸時代のヤクザの世界で入り乱れる活劇。セックス。生きる活力と死の闇が入り乱れた作品になっています。その中で三世次役の高橋一生さん、きじるしの王次役の浦井健治さんが縦横無尽に駆け抜けております。楽しくも悲劇でもあり、喜劇でもある、そんな作品になっております。前売りの完売はとても嬉しいのですけれども、本当に楽しんで頂けたらと思います。
──高橋さんは映像で大活躍されていて、久々の本格的な大舞台での主演だと思いますが、演じる役どころと見どころをお願いします。
高橋 僕は佐渡の三世次という役をさせて頂いていますが、すごく悪い人のように多くの人に言われるのですが、僕自身は一番筋が通っている人物ではないかな?と思っていて。当時の時代の中で、自分が生まれながらに持ってしまったものに対して、コンプレックスもきっとあるのでしょうけれども、それを逆手に取ってこう生きていくしかないじゃないか!という思いきりの良さと突き抜け方というのは、ある意味正しいことのように見えてきていて。ですから三世次をさせて頂いていることはすごく楽しいですね。先ほどおっしゃってくださったように舞台は久しぶりなので、稽古中はもう本当に浦井さんをはじめ皆さんにずっと頭を下げっぱなしの状態だったので。
浦井 違う、違う!
高橋 いえ、本当に慣れていなくてごめんなさい、みたいな状況がずっと続いておりました。
──やはり映像のお仕事と、生の舞台のお仕事というのは違うものですか?
高橋 お芝居の質感的には変えているつもりはないのですが、例えば稽古をしていく段取りというようなものが映像とは違う、ということはわかってはいたのですけれども、あまりにも久しぶり過ぎて、ポーっとした状態で進んでいくことが多かったので、その都度皆さんの背中を見ながら勉強させて頂きました。改めて舞台の感じを経験させてもらっているなと感じます。
──極悪人の役柄ということですが。
高橋 そうですね。極悪人は楽しいですね!やっていてものすごくウキウキするんですよ三世次を演じる時は!どれくらい極悪度を増していけるかというのは、舞台は連続して毎日公演して同じことをやっていったりするので、その中でどれだけ面白い発見ができたりとか、お客様がどう反応していくかにリアルに反応したり、応えていくことができるので、そういったところも改めて噛みしめていきたいと思います。
──浦井さん、演じる役柄と見どころについては?
浦井 きじるしの王次という役をやらせて頂きます。蜷川(幸雄)さんの時には藤原竜也さん、劇団☆新感線さんでは阿部サダオさんが演じた役なのですけれども、三世次と同じシーンはほぼないというのがちょっと寂しいと思っているのですが。
高橋 そうなんです。すごく共演を楽しみにさせて頂いていたのですが、蓋を開けたらほとんどね。
藤田 台本の構成上ね!ごめんなさい!
浦井 稽古場での一生さんの佇まいや、役へのアプローチを見学と言いますか(三世次の出る場面には)出ていないので、見ることがたくさんあって。三世次がすごく極悪なんですけれども、哀しいと言うか。この人にもこの人なりの生き方があって、しかも死にたいんだということを一生さんともお話をして、とても哀しい。井上ひさしさんが色々書かれている中での人間味を醸し出すのが一生さんの凄味だなと思います。それが自分には刺激になったので、きじるしの王次はじゃあ生の渇望、ハムレットのように生き急いだ人としてやっていけたらなと思って、立ち回りもあるので頑張ろうと思っています。
──お二人の共演は大きな話題だったのですが、本当に同じ場面はないのですか?
高橋 こう微妙にね。
浦井 ないですよね。
藤田 と思われがちなのですけれども、演出的には見事に共演しています。
高橋・浦井(笑)
藤田 台本上ではないんですけれども、私の演出で二人は見事に共演していますので。
浦井 三世次が操っている感はありますよね!
藤田 演出でと言いましたけれども、この芝居は一生さんが演じている佐渡の三世次が見ている世界というのが、ひとつの大きな作品の要素なんです。ですから佐渡の三世次はきじるしの王次を見ていて。ですから台本上での深い共演はないのですけれども、舞台上ではすごく深く共演しております。乞うご期待です。ここわかりましたか?皆さん伝わりましたか?(一同笑い)
高橋 浦井君は稽古の席から僕を見ていてくれたのでしょうけれども、僕は舞台上でずっと浦井君を見ている。そういう状況にはなっていると思います。だから台詞での関係はないんですけれども、本番中もずっと浦井君のお芝居を見させて頂いている感じです。
──去年の12月くらいから稽古に入って、もう初日ですが。
藤田 12月から一歩一歩駆け上がって、階段を一歩ずつ上りながら皆で稽古してきて。演出冥利に尽きると言っては言い過ぎかもしれませんが、自信作です。
──演出家としてお二人についてはどうですか?
藤田 高橋一生さんに対して思うことは、お芝居はお客様が劇場に入って、お客様と一緒に創ってはじめて完成するものですから、是非お客様に楽しんで頂きたいのですが、高橋一生さんをよく知っている方は、極悪人の一生さんにおおいに裏切られて下さい。そしてもしお芝居というものを、初めてこの劇場に観にいらっしゃる方がいるとするならば、演劇人・高橋一生さんをおおいに楽しんで下さい。浦井健治さんの芝居は極悪人の佐渡の三世次と相反してとてもピュアで透き通っています。きじるしの王次は、このお芝居の中で誰よりも知的に命を全うします。その演劇の潔さを是非体感して下さい。この二人のお芝居は、今までずっと演劇をやってきた人間として言うのですが、2020年の新しい芝居の形が創れた、二人の芝居が世界演劇の最先端を行くぞ!行った!という。
高橋・浦井(おおっという顔で笑う)
藤田 いや、プレッシャーじゃないです。そういう演出家冥利につきるなという穏やかな気持ちで、この荒くれた芝居を見ているので、是非多くのお客様に楽しんで観て頂きたいです。
──今の藤田さんの言葉についてどうですか?
高橋 とにかくプレッシャーです!こんなこと言われちゃった!世界演劇だって!
浦井 本当ですね!でも木場勝己さんはじめ諸先輩方がいらっしゃるので。もちろん緊張もするんです。先輩方の背中があまりにも大きいので。そういう時には僕は一生さんの楽屋に入り浸って、二人でタピオカ飲みながら(笑)仲良くやりたいと思います。
──では最後に代表して高橋さんから意気込みをお願いします。
高橋 本当に多く方に観て頂けたら嬉しいなと思います。俳優は舞台の上で別の人生を生きていくものなので、それを目撃しに来てもらえたらなと思っています。
【公演情報】
『天保十二年のシェイクスピア』
作◇井上ひさし
音楽・音楽監督◇宮川彬良
演出◇藤田俊太郎
出演◇高橋一生 浦井健治 唯月ふうか 辻萬長 樹里咲穂 土井ケイト 阿部裕 玉置孝匡 章平 木内健人 熊谷彩春 梅沢昌代 木場勝己 ほか
●2/8~29◎日生劇場
〈料金〉S席 13,500円 A席 9,000円 B席 4,500円(全席指定・税込)
〈お問い合わせ〉東宝テレザーブ 03-3201-7777(9時半~17時半)
●3/5~10◎梅田芸術劇場メインホール
〈料金〉S席 13,500円 A席 9,500円 B席 5,500円 (全席指定・税込)
〈お問い合わせ〉梅田芸術劇場メインホール 06-6377-3800
https://www.tohostage.com/tempo/index.html
【取材・文・撮影(囲み)/橘涼香 舞台写真提供/東宝演劇部】
Tweet