【一十口裏の「妄想危機一髪」】第72回 Gと爺
「ニュースです。本日より重力が、目に見えるようになりました。」
重い布団の端をめくって、点けっぱなしだったテレビに目をやると、大地を海を山を川を、道路を家を建物を、必死で抑え込む、重力たちの姿があった。
アナウンサーの頭をしっかりと抑えて、こちらに微笑みかけてくる、重力の姿があった。
そして、布団の上に座って俺を抑え込んでいる、重力と目が合った。
殺風景なこの部屋も、賑やかなものになっていた。
体を起こせば、安物のテーブルや座布団なんかを抑えてくれる、重力たちが居た。
床にしゃがみ、転がしたままになっていたビール瓶を人差し指で押さえている重力は、俺を見ると手を振った。
重力たちは、俺に喋りかけてくることも、互いに喋り合うこともなかった。
ただ時折くすくすと、互いに笑い合っているような気配はあった。
それは決して嫌な雰囲気のするものではなく、別に俺を笑っているのではなく、俺を含めた物の全てを抑え続けていることを楽しみ、俺を含めた物の全てを慈しんでくれているようだった。
更に時折は細かく体をゆすって、踊っているような感じになった。
地面の微かな揺れに合わせて、重力たちは少ない食器をカタカタ鳴らした。
そんな時は、俺も共に踊った。重力たちと手を取り合って、ユラユラと踊った。
そうして唐突に始まるささやかなダンスパーティは、かつてのダンスホールを思い起こさせる、くすぐったいような心地よさだった。
当然、この重力の奴らは、飯の支度中も、晩酌中も、ぼんやりテレビを眺めている時も、俺を決して離さない。
そのうち、何人いるのか分からない重力の内の一人が、いつも俺に触れ、いつも俺を地面に繋ぎ止めていることに気づいた。
毎夜布団の上で俺を見つめ続けてくれている重力だ。一番最初に目が合った重力だ。
俺がそれに気づくと、その重力は少し目を伏せ、微笑んだように見えた。
俺はその重力を、重(じゅう)ちゃんと呼んだ。
当然、訪ねてくる者もなく、年に一本の電話さえ鳴らない、相変わらずの一人暮らしだが、下がりきっていたはずの俺の頰と口角は、少しずつ緩やかに上がっていった。
いつしか俺も重ちゃんと、くすくすと笑い合うようになっていた。
頰と口角が上がると、不思議と視力さえ蘇ってくる気がした。
そうして、重ちゃんに抑えられながらも俺の体は、少し軽くなったように感じた。
俺は重ちゃんと一緒に、散歩に出るようになった。
すぐ近くのスーパーだけでなく、少し遠出をするようになった。
その散歩は楽しかった。久々に昔馴染みの店に立ち寄り、公園でくつろいだ。
ある晩などは思い切って、昔の女に電話をかけてみた。
誰よりも聡明だった彼女の声は、昔とまったく変わらずに、艶っぽく生き生きとして、張りのある声だった。
俺は負けじと張りのある声を出して近況を訪ねてみたが、彼女は、彼女は死んだと言った。死んで、もう五年が経つと言った。
彼女の声だと思ったそれは、彼女の孫の声だった。
俺は咳き込み、その咳は止まらなかった。
重ちゃんは俺を、一瞬も離さない。死んでも俺を離さない。
もし離れるようなことがあれば、俺はたちまち宇宙まで弾け飛ぶ。
だからこそ俺は安心して重ちゃんと一緒に歩いたのだ。
なのにその頃から重ちゃんは、一瞬俺から手を離して、俺を弄ぶようなことをするようになった。
地面からふわりと浮き上がった俺は驚き、笑った。
笑って、重ちゃんに更に身を寄せた。そのスリルに、高揚した。
それから俺が落ち込むたびに、それは繰り返されたが、それはだんだん酷くなり、俺はビルより高く飛んだ。
俺は笑ってはいられなくなり、決して離さないでくれと懇願するようになった。
しかし重ちゃんはくすくすと笑い続けた。
そうして終いには、大気圏のギリギリまで弾け飛んだ。
果てない暗闇を湛える宇宙を垣間見て身が縮み、俺は重ちゃんを強く抱きしめた。
だから俺は散歩をやめた。
今、重ちゃんは俺に覆いかぶさるようにして、俺を床に押し付けている。
俺の体が更に軽くなったから、そうでもしないと俺は飛んでいってしまうのだろう。
体は前よりも軽いはずなのに、これまでの人生の中で一番軽いくらいなのに、重ちゃんの重みがのしかかり、もう足腰が耐えられない。
俺はいつも布団に居るようになった。
相変わらずくすくす笑う重ちゃんと一緒に、布団で過ごすのは悪くなかった。
何より、筋肉の全てと内臓の全てまでが重ちゃんに抑え付けられ、横たわればもう起き上がることは出来なかった。
そうして起き上がれなくなって何回めかの朝、肺を抑えつける重ちゃんを、俺は押しのけようとした。
息が吸えなかった。息を吐くことは出来ても、吸うことが出来なかった。
俺は重ちゃんに、退いてくれと言った。言おうとした。言わずとも重ちゃんなら、分かってくれると思った。重ちゃんは俺を、解放してくれると思った。
だから今、俺は、俺に覆いかぶさる重ちゃんに懇願している。
俺を宇宙に、弾け飛ばせて欲しい。たとえ果てない暗闇でも、俺はそこに解放されたい。
どうせ息が吸えないなら、真空空間に放って欲しい。
しかし重ちゃんはくすくすと笑いながら、俺を布団に押し付けるばかりだ。
布団にめり込まんばかりに、ただ、押し付けるばかりだ。
【著者プロフィール】
一十口裏
いとぐちうら○ 「げんこつ団」団長
げんこつ団においては、脚本、演出のみならず、映像、音響、チラシデザインも担当。
意外性に満ちた脚本と痛烈な風刺、容赦ない馬鹿馬鹿しさが特徴。
また活動開始当初より映像をふんだんに盛り込んだ作品を作っており、現在は映像作家としても活動中。
げんこつ団公式サイト
http://genkotu-dan.official.jp/
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