得られなかった理想の人生への憧憬 宝塚雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』
セルジオ・レオーネ監督の映画をベースに、20世紀初頭のアメリカ移民の人生を、小池修一郎がミュージカル化した宝塚歌劇雪組公演ミュージカル『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』が、3月22日千秋楽を迎えた。
ミュージカル『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』は、1984年に公開されたセルジオ・レオーネ監督、ロバート・デ・ニーロ主演による超大作映画。20世紀初頭ユダヤ系アメリカ移民が多く暮らすローワー・イーストサイドの少年たちが、禁酒法時代、更に老境に差し掛かってからの、少・壮・老、三つの時代を交錯させ、彼らの野心、恋、友情などを絡めた波乱万丈の人生が、サスペンス要素も含まれて描かれていく。今回の宝塚版は、この作品に魅了されたという小池修一郎が、宝塚の世界に作品を寄せて、主人公ヌードルスがヒロイン・デボラに抱く強い愛情を主軸に、取り巻く人々との友情や裏切りなど、人生の哀歓を紡いだ作品となっている。
【STORY】
1920年代のアメリカ、ニューヨーク。マンハッタン島東南の場末であるローワー・イーストサイドには、成功を夢見て新大陸アメリカに渡ったユダヤ移民が多く暮らしていたが、彼らにとってアメリカでの暮らしは苦しく、容易に陽の当たる場所に出ていけない現実が続いていた。
そんなユダヤ移民の子の一人であるヌードルス(望海風斗)も、幼い頃から罪に手を染める以外に生きる術がなく、コックアイ(真那春人)、パッツィ―(縣千)、ドミニク(彩海せら)らと共に、酔っ払いの懐を狙って日銭を稼ぐ日々を送っていた。
そんなヌードルスが恋焦がれていたのは、仲間内では数少ない正業についているファット・モー(少年時代・橘幸/壮年期・奏乃はると)の妹デボラ(真彩希帆)で、女優になりユダヤで初めての皇后になってみせると夢見るデボラは、なんとしてもこの場所から抜け出し成功者に、皇帝になろうとの野心を抱くヌードルスにとって、共に大望を抱く者としての共感と、夢の象徴のような存在だった。
ある日、いつものように街角で、往来の男から高価な懐中時計を掠め取ったヌードルスたちだったが、警官に見とがめられ、あわや逮捕されかかる。その窮地を咄嗟の機転で救ったのが、この町に越してきたばかりだというマックス(彩風咲奈)だった。意気投合した彼らは、マックスの大胆な計画で、禁酒法時代真っただ中のアメリカ社会を逆手に取り、密造酒の運び屋として一気に裏社会での活路を広げていく。だが、そのことが同じ仕事で儲けていたバグジー(諏訪さき)の恨みを買い、ついに衝突した彼らの争いからドミニクがバグジーに殺され、激昂したヌードルスはバグジーと共に止めに入った警官も刺殺してしまう。
少年鑑別所から刑務所へと送られたヌードルスが刑期を務めている間に、1929年ウォール街の株大暴落から、狂騒の20年代はあっけなく終わりを告げる。この間にも、仲間たちは結束を緩めず、酒の密売で大儲けをしたマックスは、スピークイージー(潜り酒場)を経営する暗黒街の顔役の一人となり、店の歌姫キャロル(朝美絢)を恋人に、更に野心を膨らませていた。ようやく刑期を終え、そんな彼らに迎えられたヌードルスはデボラと再会。今や、マンハッタンの最上階にある劇場でショースターとして活躍しているデボラは、幼い頃に夢見たように真っ当な道で皇帝と皇后になろうと、ヌードルスにマックスたちの仕事に関わらないで欲しいと願うが、自分の帰りを待っていてくれた仲間たちを裏切ることなど、ヌードルスにできるはずもなかった。
やがて「アポカリプス(黙示録)の四騎士」と呼ばれるようになったヌードルスたちは、次々と危険な仕事に手を染め、全米運送者組合に属するジミー(彩凪翔)の依頼を受けて、労働争議に介入するなどして、大金を手にしていく。その過程で、ヌードルスはこの資金を元手に真っ当なビジネスをはじめるから、自分の皇后になって欲しいとデボラに乞うが……
作品に接してまず感じたのは、原典となった同名の映画版以上に、劇作家・演出家小池修一郎が過去に残した作品群の面影だった。それは小池のデビュー作である、無声映画時代の大スター、ルドルフ・ヴァレンチノを描いた『ヴァレンチノ』や、狂騒の20年代を代表する作家スコット・フィッツジェラルドの代表作の舞台化『華麗なるギャツビー』(後に『グレート・ギャツビー』のタイトルで、改編して再演)などの、劇作家小池が、『エリザベート』に出会う前の、大きく括れば初期の作品群を強烈に想起させる色合いだった。
思えば、小池修一郎が宝塚歌劇団に作・演出家として登場してくる前の宝塚歌劇作品は、「宝塚グランドロマン」「宝塚ロマン」などが冠された、こちらも大きく括れば「歌入り芝居」に属する、レビューから出発した宝塚独特の「歌劇」だった。そこでは歌は主人公をはじめとした、スターたちの役柄がその心情を歌い上げるものがほとんどで、ミュージカルナンバーによってドラマが進んでいく「ミュージカル」とは、基本的な成り立ちが異なっていた。その宝塚歌劇に「ミュージカル」の、音楽によって物語が飛翔し、怒涛のように流れていく概念を持ち込んだのが小池修一郎その人で、おそらく彼の存在がなければ、宝塚とミュージカルの世界がシンクロしていくのは、少なくとも相当後の時代にずれ込んでいただろう。彼の登場と、今振り返ると第一次ミュージカルブームと呼ぶべき、ミュージカルと名乗りさえすればスポンサーもつき、客足も伸びるという演劇界のムーブメントがかち合ったことも追い風となって、「東の宮本(亜門)、西の小池」と称されるほどに、小池作品の注目度は飛躍的に高まっていった。
そんな小池が、ウィーンミュージカル『エリザベート』の潤色・演出を大成功させたことが、またひとつの大きな転機を宝塚歌劇にもたらす。ハプスブルク帝国の黄昏に咲いた皇妃エリザベートを主人公としたミュージカルを、小池が黄泉の帝王トートを主人公に巧みに編み直した潤色(この言葉が定番化していったのも、『エリザベート』以降のことだ)の技が、宝塚に海外ミュージカルを頻繁に上演することを可能にする扉を開いた。更に、この『エリザベート』が東宝版として男女の俳優が上演する舞台でも展開され、その演出も小池が宝塚に在団したまま務めたことによって、小池は宝塚のみならず、日本のミュージカル界の寵児となっていく。この間に、宝塚で初演した海外ミュージカルを外部で上演するという形も定番化されただけでなく、宝塚用に小池が創り上げた作品さえもが、外部でも上演されるという現在の地点に、それまで全く別途の芸能だった宝塚歌劇とミュージカルは近しい存在へと変貌を遂げていた。また、アレンジャーとして様々な劇場で培われた小池の能力は、宝塚の大劇場機構をフルに使いつくすスペクタクルと、人海戦術を駆使した娯楽大作に花開き、数々の作品が宝塚歌劇の舞台を彩ってきた。それが栄えある創立100周年と、更に現在に続く宝塚歌劇の隆盛を担った大きな力のひとつであったことには、議論の余地がない。
けれどもその小池が、宝塚歌劇団理事としての節目を迎えた記念碑的作品として世に問うたのが、ミュージカル『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』だったこと。劇作家小池をそもそも生んだものの原点に立ち返った想いには、ただ深い感慨を覚える。ここに描かれたヌードルスは、求め続けたものを結局は得られないままに、成功者にも、もちろんヒーローにもなれずに、ただ黙々とその人生を全うしていく人物だ。どんな悪事に手を染めようとも、手に入れたいと願ったものを何一つ手に入れられないヌードルスの姿は、おそらく多くの人の人生そのものに違いない。『ヴァレンチノ』ではアランチャ(オレンジ)、この作品では真紅の薔薇にシンボリックされた、その人生の哀歓が、基本的には夢の世界を描き続けてきた宝塚歌劇に相応しいのか?という意見は当然あると思う。ただ、今や「日本ミュージカル界の巨匠」とまで称されるに至った小池が、その過程で、つまりは商業演劇を担う作・演出家として一方では獲得し、一方では手放さざるを得なかったもの。彼が真実描きたかった世界の根幹がこの作品にあることを、作家の謂わば夢の形見を、ここでは持って瞑したい。小池修一郎は、それに値する大きな足跡を宝塚歌劇に残しているのだから。
そんな作品で主演のヌードルスを演じた望海風斗が、小池の夢の形見を宝塚作品に押し上げた力業が、舞台を支えている。基本的にアウトローで、報われぬ人生のなか、名前も変えておそらくは片田舎でひっそりと生き続ける主人公。という、宝塚歌劇のヒーロー像の対極にある人物を、宝塚歌劇で維持できたのは、男役としての形から離れた熱演をして尚、きちんとどの姿も美しいという境地に達した望海がいてこそのことだった。宝塚の男役でいる期間を定めたことを発表している望海が、その手前でミュージカル『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』に、心血を注いでくれたことに感謝したい。
デボラの真彩希帆は、幼少期から皇后になりたいと夢を見て、その夢をドラマの中で真っ正直に叶えて行こうとする人物像に真実味がある。やはり宝塚歌劇のヒロインとして考えると、ヒーローの求愛をあくまでも拒絶するという役柄は非常に稀だし、後半では登場する度に置かれた境遇が変わっているというかなりの難役だが、デボラの成長と挫折、芯の強さをきちんと描き出している。彼女も宝塚の娘役としての期限を定めたが、ここに至る真彩自身の経験がもたらした成長を感じさせてくれた。
マックスの彩風咲奈は、己の野心の為には裏社会で生きることへの罪悪感が仲間たちよりも薄い人物像を、ふり幅の広い余裕と裏腹の焦りで演じている。後半に向かって狂気を秘めていく役柄だが、ラストシーンへの展開を今回の脚本ではあらかじめ見せてしまっているので、インパクトがどうしても乏しくなるところを、役柄が壊れていく過程として見せていて、彩風本来の温かで爽やかな持ち味を逆手に取ったかっこう。彩風が演じるからこそのマックス像になった。
その後半への展開で、原典の映画版よりもグッとクローズアップされたジミーの彩凪翔は、決して多いとは言えない登場場面の中で役柄を印象的に見せている。これも雪組のスターとして重ねてきた彩凪本人の蓄積がなければ果たせなかっただろう重みで、終版に年齢を重ねたことをスター男役としてはかなり思い切ったビジュアルの作り込みで表現していて、役者魂を感じさせた。
マックスの恋人キャロルの朝美絢は、原典映画よりもぐっと宝塚に寄せて、ひたすらにマックスを思う気持ちが裏目に出るという役柄を、体当たりで演じている。やはり終版の演じぶりには目を瞠るものがあり、大きな役柄が少ないなかで尚、この役柄を男役の朝美に振ったキャスティングの真意に応える熱演だった。
ヌードルスの仲間たち、コックアイの真那春人は言葉よりも雄弁なハーモニカで巧みに心情を表わして芝居巧者ぶりを如何なく発揮。パッツィ―の縣千の天然な言動が嫌味にならない男役としてのおおらかさが良いし、ドミニクの彩海せらがひたすら愛らしいことが、悲劇を生む重要な鍵になった。更に、その鍵を握る人物であるバグジーの諏訪さきの色濃い演技も作品に欠かせない印象を残しているし、デボラの売り出しに関わるプロデューサー・サムの煌羽レオが、この出番で「誰だった?」にならない楔を作品に残せる力量はやはり貴重。デボラと共に成功していくニックの綾凰華が、デボラとあれだけ密接に関わりつつ、あくまでも仕事仲間だということを納得させる、屈託のない造形も光る。全体を俯瞰している役柄でもあるファット・モーが、橘幸から奏乃はるとにリレーされていく演出を二人がよくつなげ、作品の時間経過を深くした。
また、娘役の役柄が非常に少ないなかで、デボラを追い落とす新進女優ベティの星南のぞみが、美貌を生かした思い切った演技で強いインパクトを残したし、アンの千風カレンが彼女らしい手堅い演技で場を引き締めた。そして、雪組を長く支えてきたベテラン娘役・舞咲りんがバレエ教師シュタイン役で彼女らしいくっきりした役作りを見せ、同じく早花まこが後半の山場でもあるサナトリウムの院長役で滋味深い演技を見せ、それぞれの有終の美を飾っていた。
彼女たち舞咲、早花、に加え、若手娘役の美華もなみを含めた三名の退団公演でもあったこの公演は、想像すらできなかった新型ウィルスの大流行によって、多くの上演期間が自粛・休演を余儀なくされた。この間、演劇界も揺れに揺れ、不要不急の、人が生きていく為に必要不可欠なものに数えられることが難しい面のある文化の担い手は、様々な判断を迫られ、それは今も続いている。どの判断も全てが苦渋の中での決断であり、その何が正しいのかを軽々に語ることはできない。宝塚歌劇が多くの集客があるはずの全国の映画館での千秋楽ライブビューイングを中止し、TAKARAZUKAスカイステージによる生中継に切り替え、尚、千秋楽の上演に踏み切ったことにも、当然議論はあるだろう。ただ退団者のいる宝塚歌劇の千秋楽公演の重みがどれほど代えがたいものかは、この世界を愛する人々が共通に持っている認識で、そこには深い祈りと願い以外の、邪なものは何もないのだとだけは言っておきたい。今はただ、命か文化かという究極の議論をせずに済む、誰もが笑ってそれぞれの大切なものを享受できる日が、一日も早く訪れることを祈り、願うのみだ。
【公演情報】
宝塚歌劇雪組公演
ミュージカル『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』
原作◇ハリー・グレイ
脚本・演出◇小池修一郎
出演◇望海風斗 真彩希帆 他雪組
●2/21~3/22◎東京宝塚劇場
〈料金〉SS席12.500円 S席9.500円 A席5.500円 B席3.500円
〈お問い合わせ〉0570-005100 宝塚歌劇インフォメーションセンター
〈公式ホームページ〉 http://kageki.hankyu.co.jp/
【取材・文/橘涼香 撮影/岩村美佳】
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