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【一十口裏の「妄想危機一髪」】第73回 ご自分で

豆腐屋のラッパが聴こえて振り向くと、
頭からすっぽりと白い布を被り白い衣装を着た、恐らくアラブ人であろう男が、
バケツ一つを手に持って、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「原油ー。原油ー。」
そう歌うように言いながら、彼はバケツを小さく揺らし、一歩一歩近づいてくる。
そして再びラッパを吹くと、こちらを見て立ち止まった。
いや最初に見ていたのはこちらの方か。
そして彼は髭を揺らして言った。
「要るか。原油。」
要らなかった。首を振ると彼は去った。去ってまたラッパを吹いた。
「原油ー。」
バケツの中で黒光りしている、恐らく原油が、夕日を反射してギラリと光った。

その日、僕がその本屋に立ち寄ったのは、ほんの気まぐれからだった。
味気ないビジネスホテルに、真っ直ぐに帰りたくなかっただけだった。
ほとんどがシャッターの閉まった商店街の中で、
その本屋だけがぽつんと店を開けていた。
ホテルの近くまで行けば少しはひらけているが、
やたらだだっ広いだけの居酒屋チェーン店しかない。
だから僕はその本屋へ、吸い込まれた。

店内には、多分、バイトかパートの、若いとも若くないとも言えない女性がいた。
店名の入った色褪せたエプロンをつけて、下を向いて爪を弾いていた。
僕は普段、本を読まない。特に小説。
赤の他人の人生に興味はないし、
赤の他人のホラ話に時間を裂くのも、馬鹿馬鹿しい。
知らない奴が想像した、知らない主人公がどうなろうと、心底、どうでもいい。

しかし僕は、誰か仕事以外の人と、単に話をしたかったんだと思う。
店内に入ってもこちらを見ようとしない女性に、こちらを向いて欲しかったんだと思う。
それより何より店内には、一冊の本も見当たらなかった。
「あの。本、ありません?」
「はあ」
「なんでもいいんですけど」
「はあ」

下を向いたままの女性を驚かせないように、慎重に愛想良く声を掛けたが、
爪を弾く手を止めて顔をあげた女性の顔には、愛想の欠片もなかった。
その表情を、僕は変えたくなった。
「本です。読みたいんです」
「はあ」
「何か、お勧めとか、ありませんかね?」
「はあ」
「ほら、なんかこう。驚きに満ちていて、決して飽きさせず、 大胆でいて繊細で…。で、心をぐっと掴んで離さずに、読み終わったら…、そう、人生大きく変わっちゃうような。どうせ読むなら、そんな本がいいんですけど。でも、そんな本って、ありますかね?」

最後には身振り手振りを交えて大袈裟におどけて見せたのに、
女性はにこりともしなかった。
僕は半笑いの顔を元に戻すタイミングを失った。
「ご自分でお願いします」
半笑いの僕に向かって、女性は言った。
怒ってもいない、笑ってもいない、気が抜けるほど普通のトーンで言った。
そしてまた下を向き、爪を弾き始めた。
まだ半笑いで何も言えない僕に、女性は爪を弾きながら繰り返した。
「ご自分でお願いします」
「ご自分で?」
「はい。うちはセルフサービスになっておりますので、ご自分でどうぞー」
女性は顔をあげないまま、軽く語尾を伸ばした。
もう顔をあげてくれそうにない女性のエプロンをよく見ると、
店名の横に小さく「セルフ」とあった。

「駄目だ駄目だ駄目だ!」
その時、奥の引戸がガラリと開けられ、男が転げ出てきた。
裸足のままベタベタと転げ出ると、幾度も咳をした。
伸ばしっぱなしの白髪。痩せた鎖骨が丸見えになったよれよれの着物。乱暴に締めた帯。
男は咳をし終わると、眼光鋭く僕を見つめた。
そしてそのまま僕に近づき、嗄れた声で呟いた。
「簡単じゃないよ」

振り返るとバイトだかパートだかの女性は、変わらず爪を弾いている。
と、思った瞬間、僕は首根っこを掴まれて、奥に引きずられた。
タバコの濃い香りと吸い殻のすえた匂いにむせる間もなく、
僕はカビ臭い畳の上に放り投げられた。
畳とほぼ同化している、畳のシミのような座布団と向き合った。

「なんなの、うるさい」
顔をあげると、懐かしい色の薄カーテンの向こうから、女が白い顔を覗かせた。
女は白い顔に、赤い細縁メガネを掛けていた。
男は僕を放り投げると、僕に背を向けて座り込んだ。
座り込んだ周りには沢山の紙屑が落ちていた。女は笑った。

「ああ、磯沼さんはもう、四十六年目になるから」
女が手をひらひらさせると、強烈な香水の香りが部屋に充満した。
タバコと吸い殻とカビの匂いが、一瞬にして塗り替えられた。
僕はむせた。酸っぱいものがこみ上げる程、むせた。
「え?私?やだ聞かないで。歳がバレちゃうでしょ?」
ようやくむせ終わった僕を見つめ、僕の頰を一撫ですると、女はまた笑った。
「じゃ、頑張って」
そうしてカーテンの向こうに戻ろうとした時、天井からドン!という音がした。

「あきゃきゃきゃきゃ!」
次に笑い声なのだか何なのだかわからない奇声が聞こえたと思ったら、
階段を、降りるというよりは落ちるように、皺くちゃの爺さんが転げてきた。
元の色がわからない程、まだらに染まったスウェット上下が、畳の上に蠢いた。

その異臭を放つ爺さんは、気が違ったように笑い転がりながら原稿用紙をめくった。
震える手でその字を辿って、また、爆発するようにけたたましく笑った。
そしてまたページを捲って、今度は息を飲み、驚愕した。
目を真ん丸くして、次へ、次へと、ページをめくる。
その手は更に震え、文字を読むのも、もどかしいらしい。
しかしその目は文字に、釘付けだった。

僕らはそれを、ただ見ていた。
やがてそのページをめくる速度は、ゆっくりとしたものになっていった。
やがてとても静かに。一切の音もさせずに。
爺さんは一枚一枚、ページをめくり、一文字一文字、文字を追った。
徐々に、爺さんの目は潤んでいった。

そうして最後の一枚をめくり終わると、爺さんは恍惚として、顔をあげた。
その顔には、まさに輝くような表情が浮かんでいた。
何一つなく、ただ遠くに地平線が広がっているような、そんな空気がそこに漂った。
その静かに満ち足りた空気は、その爺さんから放たれていた。
薄汚れた格好など吹き飛ばしてしまう、美しさが溢れていた。

いったいそこに、何が書いてあるというのか。
思わずそれを覗き見ようと身を乗り出すと、爺さんは身構えた。
思わずその原稿の一枚を掴もうとすると、
爺さんは破れんばかりの勢いでそれを引っ込めた。
白髪の男も白い顔の女も、吸い寄せられるようにその原稿に手を伸ばす。
爺さんはそれを振り払い、飛ぶように小走りに駆け出して、
パートだかバイトだかの女に、唾を飲んでから言った。
「これ、ください」
女は爪を弾くのをやめて、ちらりと原稿を見て言った。
「680円です」
爺さんはポケットをまさぐった。
女は面倒くさそうにレジを打った。チーンという音がした。

「ありがとうございましたー」
店を出ていく爺さんの背中を見送ると、僕らは同時に踵を返した。
ほとんど同時に引き返したので、僕らは一旦、引き戸に詰まった。
一瞬息が止まり、両足が宙に浮いたが、
男の袂を引っ張り、女の腹を押しのけて、僕は真っ先に臭い部屋に舞い戻った。

男は再び、畳の黒ずんだ凹みに収まった。
女はカーテンをひらめかせて、その向こうに収まった。
僕は男の横に積んであった原稿用紙を鷲掴みにし、
机の上にあった万年筆を手に取り、頭を振って墨を探した。

そうして僕はまず、これを書き始めた。
僕は僕を「僕」と言ったことはあまりないが、
「私」とも「俺」とも書きづらいので、
とりあえず自分のことを、「僕」としてみた。

そうしてここまで書いてみたものの。
さて、この先いったい、何を書けばいいのか。

豆腐屋、いや、原油屋のラッパが、また聞こえてきた。
僕は頭を、掻きむしった。

 

【著者プロフィール】
一十口裏
いとぐちうら○ 「げんこつ団」団長
げんこつ団においては、脚本、演出のみならず、映像、音響、チラシデザインも担当。
意外性に満ちた脚本と痛烈な風刺、容赦ない馬鹿馬鹿しさが特徴。
また活動開始当初より映像をふんだんに盛り込んだ作品を作っており、現在は映像作家としても活動中。

げんこつ団公式サイト
http://genkotu-dan.official.jp/

 

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